ショパン家の生き証人
ユゼフ・スクウォドフスキの話の前に,ちょっと寄り道をしたいと思います。
昔のポーランド旅行の写真を整理しているうちに,どうしてもこれを書かずにはいられない衝動に駆られ,しばしお付き合いいただけたら幸いです。
この写真,何だかわかりますか?
そう、ショパンの家族の肖像画です。
こちらはワルシャワ・ショパン家の居間(クラクフ郊外通り,聖十字教会の隣の建物)の展示室です。

画素が荒く,ピントもきちんと合っておらず,見づらくてすみません、、
下はジェラゾヴァ・ヴォラにあるショパンの生家の,家族の肖像画。

2枚目の写真で説明しますと,上段左がショパンの母テクラ・ユスティナ,右が父ニコラ・ショパン
下段左が姉ルドヴィカ,中央が妹イザベラ,その右がフレデリク,右端の小さな肖像画は早世した末妹エミリア。
家族の肖像画は,ショパンが19歳の時,アンブロジ・ミエロシェフスキという画家によって描かれました。
残念ながらオリジナルは失われており,ショパン家の居間の肖像画もジェラゾヴァ・ヴォラの肖像画も複製です。
(末妹のエミリアは,家族の肖像画を描いた時にはすでに亡くなっていたので,この小さな肖像画は別に後から描かれたものと思われます)
この2枚の写真の家族肖像画を見て,何か不思議に思いませんか?
指摘されないと見逃してしまいそうな不思議さですが。
ひとつだけ,肖像画のサイズが違うのを。
そう,ショパンの妹,イザベラの肖像画です。
肖像画はすべて複製ですので,複製を製作する時に,あえてサイズの違うカンバスに描いたのですね。
え、でも主人公はフレデリク・ショパンですよね?
フレデリク・ショパンのための展示ですよね??
そうですね。
実はこれには理由があります。
その理由を書きたいと思います。
わたしたちがよく目にするショパンの伝記やショパンに関する文献には,妹イザベラが登場するシーンはごくわずかです。
ショパンの両親や,姉ルドヴィカ,とりわけ末妹のエミリアについては彩豊かに生き生きと描かれていることは,1冊でも伝記を読まれたことがある方ならご存知でしょう。姉ルドヴィカは非常に聡明でフレデリクの良き遊び相手であり良き指導者,ピアノの最初の手ほどきも姉ルドヴィカからでした。末妹のエミリアはショパン家の第二の天才と言われるほどで,幼い頃から詩や文学などに素晴らしい才能を見せていたそうです。残念ながら14歳で結核のため亡くなってしまい,エミリアの死にフレデリクがどれほど深い悲しみの淵に突き落とされたかも,伝記の中に描かれています。
が,フレデリクの年子の妹イザベラは,この手の伝記には詳しく描かれることなく,そのため多くのショパン研究者の間でも,イザベラはショパン家の才能あふれる子供たちの中ではこれという特徴もなく,秀でた部分もなく,注目するには値しない存在であるかのように扱われてきたように思います。これはとんでもない誤解です。
ショパンの伝記にイザベラがほとんど登場しないのは,その伝記の語り手がイザベラ自身だったからです。
ショパンの伝記のソースは主に2つあります。
ひとつは日本でも有名な,ショパンの死の数年後,フランツ・リストによって書かれたもの。
そしてもう一つは,それから約10年後,ポーランドの音楽家マウリツィ・カラソフスキによって書かれた,ワルシャワ時代のショパンを軸としたもの。このカラソフスキがショパン家の話を聞き取った相手が,妹イザベラでした。
フレデリクがパリで亡くなったのが1849年。その後,ショパンの作品の版権や残存する手稿,また手紙類など(一部失われたものを除き),ワルシャワの家族に手渡されます。ショパンの幼なじみだったユリアン・フォンタナ氏が取りまとめたもので,そこで楽譜に関する権利が正式にショパンの家族である,母テクラ・ユスティナ,姉ルドヴィカ・イェンジェイエヴィッチ,妹イザベラ・バルチンスカに引き渡されました。ユリアン・フォンタナ氏は元々ワルシャワ大学の法学の学位を持っていたので,こういった法的な手続きには詳しかったのでしょう。
その後,カラソフスキ氏が青少年時代のショパンの伝記を記すことになります。聞くところによると,リストが書いた伝記は憶測や思い込みで書かれた部分が多く,これを読んだワルシャワの家族は嘆き悲しんだと言います。フレデリクの本当の姿を描いて遺したい,と思ったかもしれませんね。
フレデリクが去った後のワルシャワは政治的に難しい時代を送ることになります。1830年のワルシャワ11月蜂起,これはフレデリクがワルシャワを去ったわずか4週間後に起きたのですが,一時は蜂起軍が勝利し,政権を取るものの,翌年にはロシアの反撃に遭い,ワルシャワは陥落してしまいます。その後ポーランドはロシアのさらなる圧政に苦しめられることになるのですが,ワルシャワのショパンの家族はこの混乱した社会の中を逞しく生き延びます。
1832年,姉ルドヴィカがカラサンティ・イェンジェイエヴィッチと結婚,翌年イザベラはショパン家で長年家庭教師として働いたアントニ・バルチンスキと結婚。イザベラとアントニ夫妻はショパン家の両親とともに暮らすことになります。
イザベラは蜂起後の混乱した社会で,夫のバルチンスキとともに慈善活動に身を投じます。蜂起(戦争)で親を亡くした子供たちのための施設でボランティア活動に従事,その後イザベラは子供の支援活動の道を広げていきます。
1844年に父ニコラを看取り,1855年には姉ルドヴィカを送り,遺された姉の子供たちをイザベラが引き取ります。
1861年には母テクラ・ユスティナも看取ります。
カラソフスキの伝記の話は,そのさなかにもたらされました。
イザベラはユリアン・フォンタナから受けとったショパンの手紙をカラソフスキに託し,カラソフスキとともに片っ端から書写していきます。
そしてカラソフスキはワルシャワ時代のフレデリクについて,イザベラにインタビューします。
イザベラは家族の一人ひとりを,それは彩豊かに生き生きと語りました。家族がどれほど素晴らしい人たちだったか,とりわけフレデリクがどれほど家族の誇りであり喜びであったか,余すことなく語ったそうです。
そして,悲劇が起こります。
1863年1月,ワルシャワで再度,市民による武力蜂起が勃発します。
ワルシャワ市の高官だったアントニ・バルチンスキを逮捕するために官憲が家に押し入り,家宅捜索と称してそこらじゅうのものを壊し,居間にあったピアノ=フレデリクもショパン家のみなも奏でたピアノ=も破壊し,窓から放り捨ててしまいます。ショパンの手紙や楽譜もそのとき,多くが焼かれてしまいました。バルチンスキも逮捕されていきました。牢獄では激しい拷問に遭い,数週間後に釈放された時は無惨な姿で帰宅しました。
カラソフスキが自宅に持ち帰っていたショパンの手紙はかろうじて難を逃れ,その後筆を急がせ,伝記を完成させます。
そうやって出版された伝記は,歴史的考証が取れていない箇所,あやふやな箇所が多く含まれ,後世の研究者を悩ませることになります。が,当時の状況で史実としての確かさを求めるのは酷でしょう。そういった箇所は今はほぼ明らかになり,リアルなフレデリク・ショパンの姿を我々に伝えてくれます。
ショパンの伝記にイザベラがほとんど描かれないのは,語り手がイザベラ自身であったこと,そして彼女が自分を語らない,控えめな人柄だったこと,そしてそれはそのまま,フレデリク・ショパンがどういう家庭に生まれ,どのような家族に囲まれて育ったのかを教えてくれます。
わたしは個人的に,イザベラが語ったフレデリク像をそれほど信用してはいません。
イザベラはお兄さんが大好きで,大好きすぎて,相当美化して描いたのではないかと考えています。
ただその分,イザベラの人柄を思います。
わたしたちのフレデリク・ショパンは,このような妹を持つ兄だったのだなと。
そして,ポーランド人はイザベラを知っています。
彼女が遺された家族と共に受け取った楽譜やそれにまつわる権利を,ショパン家で最後まで生き残ったイザベラが後世にきちんと手渡してくれました。
今わたしたちがショパンの名曲の数々に触れることができるのも,イザベラの働きがあってのこと。
それが,ショパン家の居間とジェラゾヴァ・ヴォラの家族の肖像画の中で,イザベラの肖像画だけがひとまわり大きく描かれている理由なのです。



